洞窟に関する基礎的な知識を紹介します

鍾乳石は1センチ成長するのに約100年かかると言われています。洞窟内の生成物は何千年何万年もかけて成長したものです。一度こわれた鍾乳石は元には戻りません。貴重な鍾乳石の保護・保存にご協力ください。

竜ヶ岩洞の誕生

探検・調査、そして難工事の連続・・

1978(昭和53)年、名古屋大学塩崎平之助教授によって、初めて竜ヶ岩洞の学術調査が行われた。1981年(昭和56)6月、戸田貞雄が洞窟開発に着手する。貞雄の握る大ハンマーの岩を砕く音が、荒れ果てた砕石場跡に鳴り響いた。来る日も来る日も、硬い岩盤や冷たい地下水流との苦闘が続く。その果てに、待っていたものは・・・。

塩崎平之助名古屋大学教授一行による学術調査は、1978年(昭和53)と1982年(昭和57)の2度にわたって行われた。洞口より80m地点までの調査で多彩な鍾乳石が確認され、洞窟が更に奥に続く事を予感させた。(その予感は、のちに的中する)

その間、浜松ケイビングクラブによって何度も洞内調査されたが、洞口から80m地点にある高さ10cm程の狭い空間が、その行く手を阻んだ。


開発当初の洞口付近(1981.11)


削岩機による掘削作業の様子(「コウモリの間」 1981.12)


水面と天井のわずかな空間を進む竹内氏1992.9)

「うらみの窓」を突破する!

1981年10月、3日間に及ぶ手掘り作業の結果、それまで行き止まりとされた「うらみの窓」をついに突破することに成功した。これが、その後に続く大広間や地底の大滝などの大発見の糸口となる。

狭い「うらみの窓」を抜けると空間が開け、さらに奥へと続いていた。この記念すべき難所はのちに「喜びの窓」と名前を変えた。「喜びの窓」の突破した後の数ヶ月間は、発見につぐ発見の連続だった。調査隊は「大広間」を発見し、ついに地底の大滝を発見する。

1981年(昭和56)12月、懐中電灯の光が水しぶきを上げる地底の大滝を映し出した。「黄金の大滝」発見の瞬間である。

1981年6月、戸田貞雄による竜ヶ岩洞の開発が始まった。洞内の粘土を鍬で掻き集めて一輪車で外に運び出す、手掘り作業であった。

岩盤を砕く

洞奥へと作業が進むにつれ、機械力も必要になってくる。削岩機の轟音が洞内に響き渡たると作業員の会話も怒鳴り声になり、作業の様子を見に来た人は、その迫力に度肝を抜かれた。

削岩機がうなりを上げると、もうもうたる粉塵のため、作業員の姿もかすむ。爆音・振動・粉塵・・劣悪な作業環境にもかかわらず、作業員の手には力がこもる。作業は「喜びの窓」へと迫る。

ちょっとした気のゆるみが、事故につながる。鍾乳石を傷めないように、細心の注意を払いながら作業をする。ガガガガガーッ。耳をつんざくようなごう音。ドドドドドドーッ。腹にひびく破砕機の重低音。「黄金の大滝」まであと数十mに迫る。ほとばしる汗をぬぐいながら、黙々と作業を続ける。硬い岩盤が、少しづつ少しづつ砕かれてゆく。


「天恵の泉」付近の掘削作業 (1982.9)


手前が塩崎教授、後方右が戸田貞雄(1983.3)


掘削機による「黄金の大滝」付近の作業(1983.8)


全洞開通を祝う関係者(『黄金の大滝』付近 1983.9)

水滴・水流・滝の汗

天井からしたたり落ちる水滴、床をはう地下水、そして高い湿度の中で、汗が滝のように流れる。作業員の姿が、暗く狭い地底空間に、あたかも溶け込んでいくようであった。毎日毎日が、自分との戦いでもあり、"情熱”の一言では表現できないものが、彼らを過酷な作業に耐えさせていた。

多くの鍾乳石に彩られた「鳳凰の間」を、何とか無傷で残したい。迂回路としてのトンネル工事は一日に約20cmづつ掘り進み、100日で20mの隋道が完成した。

古畳で鍾乳石を守りながら、作業は進められた。難工事だった隋道が完成し、ささやかなお祝いをする関係者の顔もほころぶ。

1983年9月、出口側からの工事が「黄金の大滝」に至り、全洞が開通する。難工事を乗り越えた喜びは、格別である。

洞前広場の整備

洞内作業とともに、洞口周辺の整備が始まった。洞内から運び出された土石は、そのまま庭園の築山や岩石園の盛土となった。

細く曲がりくねった田舎道もバスが通れる巾に拡幅され、駐車場も整備されていく。8月8日の仮オープンに向けて、作業は急ピッチで進められた。

いよいよ完成の日が近づいてきた。約2年半の整備作業もいよいよ終盤を迎えた。「最後まで無事故で!」と、気を引き締める。


重機による石積み作業(1983.5)


駐車場の整備風景(1983.5)


作業中の戸田貞雄(手前)

オープンが待ちきれない!

1983年(昭和58)8月8日の一般公開の日が近づくにつれ、様子を見に訪れる人々も増え始めた。夏の暑い日には、洞窟から吹き出す冷たい風を受ける人で洞口付近はいっぱいになった。

10月8日、待ちに待った全洞がオープンした。訪れた来場者の誰もが、神秘の地底世界に目を見張った。

戸田貞雄の夢と情熱が、荒れ果てた採石場跡を年間60万人を数える観光施設として蘇えらせたのである。

地域の発展を願って

貞雄が経営していた石灰岩砕石場の跡地を見て、「この荒れ果てた石山を、何とか蘇らせる事が出来ないものだろうか・・。」と願った。この一念が、彼を鍾乳洞開発に駆り立てた。

おわりに

みかん畑の広がる静かな山あいの里に、産声をあげた竜ヶ岩洞。1983年8月のオープン以来の累計入洞者数が、まもなく1300万人になろうとしている。


オープン前に集まる人々(1983.7)


テープカットの瞬間 (1983.10)


来場者で賑わう竜ヶ岩洞 (1988.6)

竜ヶ岩洞開発者・戸田貞雄

1907年(明治40年)10月、浜松市北区引佐町(旧奥山村)に生まれる。
1978年(昭和53)に調査した名古屋大学塩崎平之助教授の「地形的に見て、鍾乳洞のある確率は高い。」という一言に、貞雄はある確信を抱く。
「この下には、必ず“地底の花”がある!」
1981年(昭和56)6月、74歳の貞雄はスコップと一輪車を手に竜ヶ岩洞開発の一歩を踏み出した。
“地底の花”を掘り当ててみせる・・”
約2年半に及ぶ難工事の末、荒れ果てた採石場の跡地が年間50万人を越える観光鍾乳洞として蘇った洞窟に懸けた情熱が、“地底の花”を咲かせたのである。時に貞雄、76歳であった。

「コウモリの間」付近にて(1981.12)
「コウモリの間」付近にて(1981.12)

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