洞窟研究の入門編!洞窟の科学

人類と洞窟

洞窟の利用

人類は古くから洞窟や岩陰を様々な形で利用してきました。北は北海道から南は沖縄まで数多くの洞窟・岩陰遺跡が確認されており、その時代も旧石器時代から近世にわたっています。また洞窟の利用といっても、多くは洞口付近の外光が届く範囲に限られていますが、西ヨーロッパの旧石器時代の代表的な洞窟遺跡であるフランスのラスコー洞窟やスペインのアルタミラ洞窟には、全く外光の届かない洞窟奥深くの壁面に描かれた絵画や線刻画が発見されています。この章では、自然洞窟の特性を生かし利用してきた、人類の足跡を紹介します。

住居・生活の場

今から約10万年前の中期旧石器時代、ヨーロッパや中東地方に生活していたネアンデルタール人(旧人)は、 洞窟や岩陰を生活の場として使った痕跡を各地に残しています。 その後登場した後期旧石器時代におけるクロマニヨン人(新人)は、洞窟を住居としてだけでなく、 「信仰の場」として洞窟内の壁に壮大な壁画を残しました。 また現在でも、アラブやアフリカの遊牧民の中には、洞窟を住居に利用している例が見られます。 このように、洞窟や岩陰は古くから住居として使われてきましたが、それは洞窟の以下の特徴によります。

①外敵から身を守りやすい
②雨や風などをしのぐ事ができる
③洞内気温が一定で、夏は涼しく冬は暖かい

このような特徴をもつ洞窟は、住居としてだけではなく狩りをするための一時的な キャンプ地として使われたり、外敵から身を守るための避難場所として利用されてきました。 このように、家として使われた洞窟には以下のような共通点があります。

①洞口が大きくて、南向きで陽当たりがよいこと
②洞窟内に地下水があるか、近くに水場がある
③洞口付近に、作業ができる平らな場所がある(前庭部がある。)

日本各地に住居として使われた洞窟や岩陰遺跡が数多くありますが、 旧石器時代の洞窟遺跡は岩手県の風穴洞穴や栃木県の山菅洞穴、宮崎県の出羽洞穴など数は多くありません。 また、山形県高畠町には縄文草創期から古墳時代にかけての洞窟・岩陰遺跡が30ヶ所ほど確認されており、『日向(ひなた)洞穴群』や 一の沢岩陰群をはじめ、日箱岩洞穴、尼子岩陰などの遺跡から縄文草創期の隆起線文土器や多縄文土器が出土しています。 この高畠町の洞窟群には、洞穴古墳として使われた洞窟もあります。 国内の主な洞窟・岩陰遺跡としては、北海道余市町のフゴッペ洞穴、新潟県の室谷洞穴、愛媛県の上黒岩岩陰、 高知県の不動ガ岩屋洞穴、広島県の帝釈峡岩陰群、長崎県の泉福寺洞穴・福井洞穴、大分県の 聖岳洞穴などが知られていますが、他にも沢山の洞窟・岩陰遺跡が確認されています。 竜ヶ岩洞近辺では、浜松市北区の滝沢鍾乳洞や行者穴、浜北区の堀谷洞窟にも 縄文時代や弥生時代の土器や石器が出土しており、 住居として使われていたと思われます。

墓地・埋葬地

墓地としての洞窟の利用は、旧石器時代に遡ります。 1960年に、中東の洞窟内に埋葬された約5~6万年前のネアンデルタール人(旧人)の骨が、 アメリカの人類学者ラルフ・ソレッキによって発見されています。 この洞窟はイラク北部のザグロス山脈にあるシャニダールという洞窟で、 埋葬された人は、40歳前後と推定されています。 (現代人の80歳位に相当)

丁寧に埋葬された墓の土を分析したところ、沢山の花粉が確認されました。 その花粉は、小さな青い花を房のようにつけるムスカリという野草や 黄色い小さな花を沢山咲かせるノボロギクの花粉と分かりました。 このことで、当時の厳しい氷河期の生活環境にもかかわらず人の死をいたみ、 丁寧に掘られた墓穴を美しい花で埋め尽くしたネアンデルタール人の優しさや精神文化の高さが証明されました。 この発見によってネアンデルタール人のイメージは大きく変り、 現代人と同じホモ・サピエンスの仲間と認められるキッカケになりました。

日本では、大分県本耶馬渓町にある枌(へき)洞穴で、 縄文時代の人骨が、土器や石器の副葬品と共に発見されています。 洞窟の利用「住居」で紹介した山形県高畠町の加茂山洞穴、大師森山洞穴、地獄岩洞穴では、 箱式石棺を据えた洞穴古墳として副葬品の勾玉や金銅製の耳飾り、刀や鉄鏃などが見つかっています。 自然洞穴を利用した洞穴古墳は、大変興味深い例と言えます。 また、人工的に崖の斜面を掘って埋葬した横穴墓群として、埼玉県吉見町の『吉見百穴』や石川県加賀市法皇山横穴群があります。

群馬県月夜野町の『八束脛洞窟遺跡』では、火葬された34体以上もの弥生時代の人骨片が発見されています。 暗くて、閉鎖的な洞窟環境が、死者を埋葬するのに好都合だったのかもしれません。

祭祀・信仰の場

洞窟の底知れぬ暗闇とその静寂さは神秘的で、人に畏怖や畏敬の念を抱かせます。 人里近くの洞窟や岩陰に祠が祭られている例が多くありますが、 静岡県浜松市の滝沢鍾乳洞の場合は、洞口付近に祠が置かれ、 洞内にも不動様が地元住民によって祭られています。 この洞窟は、明治6年に探険調査した様子が『滝沢鍾乳洞実視誌』としてまとめられており、 江戸後期の和算家によって描かれた日本最古の洞窟測量図(絵図面)『巖洞絵図(がんどうえず)』も残されています。 また、不動様が祭られる場所にある石筍には、半ば鍾乳石に覆われたしめ縄が認められることから、 古くから信仰や祭祀の場として使われていた事がわかります。 隣接する「行者穴」も、修験者の行場であったことに由来すると言われています。

海外では、フランス西南部ドルドーニュ県レ・ゼジー村のラスコー洞窟に、 約18000年前の後期旧石器時代のクロマニヨン人(新人)が描いた洞窟壁画が残されています。 また、スペインのアルタミラ洞窟でも洞窟壁画が発見されていますが、 何の目的で洞窟の奥深い所に馬や牛や鹿とともに狩りをする人を描いたのでしょうか。 それは、たくさんの動物に恵まれ狩猟生活の安定を願ったものと考えられています。

天然の冷蔵庫

洞窟の中は、雨や風の直接の影響を受けにくく、しかも年間を通じて 低い温度で一定しているため、まさに天然の冷蔵庫と言えます。 例えば、竜ヶ岩洞の年間平均気温は18℃であり、富士山麓の溶岩洞では 3℃に保たれ洞窟や-4℃~4℃で変化する洞窟など、かなり低い温度になっています。 鳴沢氷穴も、氷を蓄えておくための氷室として利用されてきました。 浜松市北区の滝沢鍾乳洞は、近代まで食料を保管するための冷蔵庫として使われたり、 蚕(カイコ)の保管庫として使われ、洞窟内の冷気を利用して蚕が繭を作る時期を調節しました。 そのほか、キノコの栽培や酒の貯蔵庫として利用している洞窟もあります。

堆積物の採取

中国の周口店(北京近郊)の洞窟で、数十万年前の北京原人の頭骨などが発見されました。 洞窟内の堆積土から掘り出される哺乳動物の化石は竜骨と呼ばれ、当時万病の薬として珍重されていました。 そんな中、化石を研究する古生物学者が周口店の洞窟に案内され、北京原人の骨を発見したのです。 通常、屋外での骨は長い年月の間に雨水によって溶かされてしまったり、風化してしまいます。 特に、日本のような酸性土壌の風土では、化石骨の保存は望めません。 しかし洞窟内は雨や風の影響を受けにくく、しかも石灰岩から溶け出したカルシウムが堆積する骨に浸透することで、 逆に骨が固められ化石として残りやすくなります。 また、コウモリが多数生息する洞窟では、長い年月の間にその糞が洞窟の床に山のように積もります。 このコウモリの糞はグアノと呼ばれ、農作物の栽培に必要な窒素やリン酸分を多く含むため肥料として使われます。 

石灰岩の採掘

石灰岩は日本の主要な地下資源の一つで、セメントの原料や肥料としての消石灰など幅広く利用されています。 これは、洞窟の利用というよりも石灰岩の利用になりますが、石灰岩の採掘により失われる鍾乳洞も数多くあります。 閉山した石灰岩の採石場を訪れると、地表に露出した鍾乳石に出くわすことあります。 このような採石場にある洞窟は採掘作業の影響でひび割れも多く、探険は非常に危険です。

その他の利用

洞窟のある所は山深い所や海岸線など人家から離れた所が多く、人目を避けるにはうってつけの環境にあります。 昔、そうした環境の洞窟が博打場として使われたり(静岡県引佐町・博打穴)、 盗人の隠れ家として使われた洞窟もあります。(愛知県豊橋市・盗人穴)

負の忌まわしい利用法として、残念なことですが戦時中に防空壕や陣地として使われた例があります。 また、観光洞窟も洞窟利用の一つと言えますが、鍾乳洞のカルシウム豊富な水がミネラルウォーターとして販売されていることも 大きな意味での洞窟利用といえるでしょう。」

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